じいちゃんが亡くなった

2024年2月14日、じいちゃんが亡くなりました。94歳でした。
四十九日も終わり、もう2ヶ月が経ってしまいましたが相変わらず感傷に浸っています。
きれいに忘れようというわけではないですが、少し気持ちを切り替えるため、そして最期の日々の忘れるべきでない大事な記憶を忘れないためにブログとして吐き出そうと思います。

日々をとりとめなく振り返る

 物心つく前に父親がいなくなり、父親がいなかった私にとって一緒に住んでいたじいちゃんは父親代わりともいえる存在だった。
畑仕事一筋で、寡黙で、そこまでたくさん話すという感じではなかったけど、いつも心配をしてくれていたようだった。
保育園に入る3歳ごろまでは、母は日中仕事に出るため、じいちゃんばあちゃんに遊んでもらっていた。
よく神社とか河とか公園とかに連れていってもらっていて、写真が残っていたり、少しだけ自分でも覚えている。
記憶にあるじいちゃんは白髪だったが、このときの写真を見ると黒いフサフサ髪で、かなり若々しかったんだなと。
 小学生時代はよく、じいちゃんの畑仕事を一緒にやらせてもらっていた。
クワで畝を作ったり、マルチをかぶせたり、種や苗を植えたり、大豆やオクラの収穫したり、田植え、田んぼの水整備、稲刈りなどは覚えている。
この時楽しかったのはたぶん農作業ではなく、虫やカエルとかを捕まえるのが楽しかったんだろうな。
小学校高学年くらいになるとトラクターを運転させてもらったりした。今考えると結構自由に経験をさせてもらったなと。
またこのときくらいに、プレゼントとして農作業用の長靴を買ってもらった。じいちゃんばあちゃんは張り切って、少し高級目な長靴をプレゼントしてくれてた。この長靴はまだ残っており、これからも大切にしてみようかなと思う。
 中学生以降は家にいるより学校や友達のところに行くという感じだったり勉強に忙しくなったりで、このときから小学生のときに比べてじいちゃんとの関わりは少なくなっていったように感じる。
「大学に入るまでは生きとかやん」とか言ってたんですが、今思うとこの時(80歳前後)はまだまだかなりたくましかったなと思った。
畑仕事も相変わらず一人で全部やってたし、庭木の剪定だとか、家の修繕とかも全部やってて、十分すぎるほとたくましかったなと。  大学生になって実家と同じ福岡県内だがわりと離れたところに一人暮らしをすることになって、実家を出た。
じいちゃんが作った米や野菜を送ってもらって、わりとそれに依存した生活をしていた。学生としてとてもありがたい環境だった。
大学入学直後に、キャンパスに家族4人で行った。この当時はめんどくさいとか、家族でキャンパスに行くことが恥ずかしいとか思っていた。じいちゃんばあちゃんとキャンパスで撮った写真も、自分は少しやさぐれた感じで写ってしまっている。
じいちゃんばあちゃんが車で3時間くらいかかる遠出をしたのはこれが最後かもしれない。その後は体力の低下などで遠出が辛くなっていたようだった。
このときすでに低下した体力で長時間車に乗ってさらに山を登って大学を一緒に眺めにきてくれたのは、それだけわたしの大学進学を祝い、喜んでくれていたということだと今になって思う。
 東京に就職して、東京に引っ越した。学生のときは電車で実家に帰れたので、盆や年末年始に実家に帰っていたが、東京に行ったら飛行機が繁忙期だからという感じで盆正月に帰らなくなった。その分別の機会に帰ってはいたが。
20歳を超えて酒を飲めるようになったので、実家ではじいちゃんと、じいちゃんの好きな芋焼酎で晩酌していた。じいちゃんは、「晩酌に付き合ってくれる人がおると良か」とわたしと晩酌するのを喜んでいた。
 2020年6月、じいちゃんが倒れて救急搬送されたと連絡があり実家に急行した。心臓弁狭窄で田植え中に倒れた。この時は母がそばにいたため、すぐに救急搬送ができた。このとき母がいなかったら田んぼで亡くなっていたんだろう。田植えをしながら、田んぼで亡くなるというのもそれはそれで本望だったかもと冗談を言ったりしていた。
このとき91歳だった。91歳としては珍しいらしい、TAVIという心臓弁の移植手術をやった。リスクも低くない手術だったため、かなり緊張していた。一番緊張していたのは入院中など最もよく付き添っていた母だっただろう。 このときはじいちゃんがかなり生きる気力があった。早く強い心臓になって、また畑仕事をしたいと言っていた。この気力があったからか、手術は成功した。
91歳では普通やらない手術だったが、やるとなったのはじいちゃんが心臓以外の身体がかなり強かったからだった。心臓弁狭窄の問題が手術で解消されたこのとき、もう身体としては最強で、あと10年、100歳までは生きるんじゃないかと思った。
手術前後の入院期間、じいちゃんは毎日日記を書いていたし、母と交換日記をしていた。日記では、家族が元気で生活しているかという心配や、世話してくれてありがとうといった感謝が書かれていた。それまで口からは聞いたことのない言葉で、こんなことを考えていたのかと驚いた。
畑仕事一筋で、家族の心配などはしてないと思っていたが、実はとても心配してくれていた。
手術を終えて退院すると、入院中に筋肉が落ちたりで脚の調子が悪い時期が少しだけあったが、すぐに回復し畑仕事に戻った。家族としては畑仕事をやりすぎずゆっくり生活してほしかったが、聞く耳を持たず畑に行っていた。
家族の要望でもあったし、入院期間中に車の免許更新期限を過ぎたためこのタイミングで免許を返納した。それまでは車で野菜等を農協に持っていっていたため、車がなくなると農協には持っていかず、家で食べる分だけ作るようになるだろうと思っていたが、野菜を自転車に載せて農協まで自転車でいくようになった。真夏も自転車で農協まで行って、明らかに車よりもキツいのに。。
相変わらず歳不相応な無茶な活動量を早速し始めていて、自転車漕いでる途中にまた倒れたら、、とか心配はあったが、しばらく滞在した実家から東京に戻った。
 2023年10月、結婚(婚約)相手を実家に連れて行った。じいちゃんばあちゃんとも挨拶をし、二人とも満面の笑顔で喜んでくれた。
家族で写真を撮った。ちょうどミラーレス一眼を買っていたため、きれいな写真が撮れたのは良かった。じいちゃんばあちゃんが満面の笑顔でいてくれたこと、それを写真で残せたことは本当によかった。
このとき、はじめは立って撮ろうとしたが、じいちゃんが急に座り出していた。写真に飽きたかなと当時は思っていたが、このときすでに体力が落ちており、立っていられなかったんだろうなと今は思う。
このときに結婚祝いを笑顔で渡してくれた時の写真が遺影になった。とてもいい表情でいてくれたし、自分の結婚を祝ってくれた時の写真なので、見返して嬉しくなる。
 2023年12月21日、じいちゃんの調子が悪く入院したとの連絡が入った。このときすでに主治医からは、「正月を迎えられるかどうか」と危篤、余命宣告を受けていたようだった。電話で母が泣いていて、少しだけ状況を実感した。
入院のきっかけは夜に派手に転倒して救急車を呼んだこと、さらにこのとき高熱があったことだった。
実家に戻り入院先に行くと、じいちゃんがかなり痩せてベッドに寝ていた。ご飯も食べたくない、テレビを見る気力もないと、生きる気力が強いとは言えない状態で、ショックだった。
病院は牢屋のようだと言っていた。このまま病院で死ぬのか といった発言もあった。家に帰って仏様に参りたいこと、病院のメシは食べたくなく家でメシが食べたいこと、畑の様子を見たいことを聞いた。本人も帰宅したがっていたし、そんな思いを聞いた家族の我々としても家で一緒に過ごしたいと思っていた。主治医に何度も一時帰宅できないかと聞いた。前年まではコロナの影響で一時帰宅は固く認められなかったらしいが、このときはその制限が緩和されていた。年末年始の4日間の一時帰宅が認められた。そのことをじいちゃんに伝えると、久しぶりに笑顔で「そうか」と言っていた。
 2023年12月30日から一時帰宅となった。病院のベッドをだいたい片付けて、じいちゃんを車椅子に乗せて移動した。車で家まで帰り、畑の横を通ってじいちゃんに見せながら帰った。じいちゃんが1ヶ月近く入院していたことで、ピースや菜花は整備されていない状態だった。じいちゃんは体力的にきつかったのか、そこまで畑の様子をじっくり見ることもなく家まで帰った気がする。
車から家に入るときは、杖や手すりを使って自力で歩いていた。ばあちゃんもじいちゃんに手を添える感じで寄り添って一緒に歩いたり、嬉しそうだった。家に帰ると早速仏壇と神棚に参っていた。それだけ大事な存在だったんだな。
また、この日関東の自宅から妻が実家に来た。ベッドで横になっているじいちゃんに妻と改めて挨拶をした。妻とじいちゃんがリアルで会ったのはそれまで2回だけだったが、しっかり覚えていてくれた。相変わらず体力的にきつそうな状態が長かったが、妻の顔を見たときは笑顔になってくれた。もともと悪かった耳がさらに悪くなっており、家族は耳にくっつけるくらい顔を近づけて話していたが、妻もそのようにして言葉をかけてくれた。「(わたし(夫))のことをよろしく」「とにかく身体が大事。健康に気をつけて元気に生活して」という言葉をかけてくれた。
 2024年1月2日、一時帰宅から病院に戻る予定の日だったが、病院に戻ることをやめ、看取ることを見据えて自宅に残ることにした。もともと病院の生活がかなり辛そうだったし、家での介護もそこまで大変じゃないということで。入院先の主治医もその選択を尊重、快諾してくれた。入院先の主治医に代わって訪問のお医者さんが主治医となった。それまで飲んでいた心臓のための薬などたくさんの薬は飲まなくていい、新たにいくつか少しだけの薬を出された。メシの制限もせず、好きなものを食べていいと言われた。最期まで大量の薬を飲んだり食べ物を我慢したりしないようにという気遣いだったのだろう。
 2024年1月4日くらいに見守りカメラを設置した。ベッド横に尿瓶を置き、小便は尿瓶にするという感じだったが、立ち上がって尿瓶を片手でもってするという感じだったため、かなり不安定でこぼれることが多かった。また、大便は便所まで歩く感じだった。オムツにしていいと言っていたが、頑なにオムツにはしたがらなかった。尿瓶のために立ち上がったり便所まで歩こうとするときに倒れたりする危険があったため、動きがあったら通知される見守りカメラはとても役に立った。また、ベッドでの家族との会話なども録音録画されて、良い思い出記録ができた。
このときくらいに妻は関東の自宅に帰った。羽田空港の事故の影響でもともと乗ろうとしていた飛行機が欠航になって実家でもう一泊するとかいうアクシデントもあった。
 2024年1月6日、はじめての訪問看護利用をした。家での、看取りを見据えた介護を決めたときに訪問医療、訪問看護等の案内があったため、とりあえず利用しようという感じだった。訪問看護では、清拭をしてもらった。家族は清拭のノウハウも力も無いため、訪問看護にやってもらうのは力強かった。が、じいちゃんはかなり嫌だったらしく、終わって訪問看護が帰るとかなり怒っていた。それを見て、本人があんなに嫌がるなら…と訪問看護利用をやめた。結果的にはオムツ交換や清拭を家族でやる必要があるため大変だったが、本人の希望を尊重したいという母の意思によるものだったし、母が最大に頑張っていたので、じいちゃんも母も悔いのない選択だったかなと思う。
このときは、じいちゃんの回復に向けた意思が強く、できるだけ自分の脚を使って便所や居間まで歩いてリハビリしようとしていた。手すりにしがみついて、家族が横について、時間をかけて歩く。歩いたあとは疲労困憊という感じだった。疲労困憊しながら自分の弱った脚が情けないと言っていたし、脚が弱ってしまったことがかなり嫌だったんだろう。それでも、日に日に力強く歩けるようになっていた。もともと自分で物事をなんとかしようとするじいちゃんらしかった。あとから分かったが新たに処方された薬がステロイドで、ステロイドの効果で飛躍的な体力の向上などがあり、短期間でとても歩けるようになっていたぽい。
 2024年1月11日くらいになると、手すりなしでベッドから居間までの10mくらいを歩けるようになっていた。主治医も回復っぷりに驚いたようなリアクションをしていて、「看取りだと聞いて訪問にしてるけど、外来でもいいかもね」とか言ってた。このときはホントにこのまま畑仕事できるほどまで回復するのではとか思った。このときこの驚異的な回復の一因はステロイドであるということを教えてもらってれば、気構えも違っただろうけど。
このあたりの日は、朝起きて、自分で立ち上がって杖なし部屋を出て、顔を洗って、神棚/仏壇にお参りして、メシを食べて、という生活。メシ食べる等のルーティン以外は基本的にベッドで横になってテレビor寝るだったが、正月からは考えられないほどの快調だった。朝、昼、夜をじいちゃんと一緒に食べた。  (いつか)ばあちゃんがいつの間にか宅配飲むヨーグルトを契約してた。じいちゃんに飲ませるためだったらしい。押し売りにまんまと契約させられた感じでアレだったし、わりと揉めはしたが、じいちゃんとしては飲むヨーグルトが結構すきだったらしく結果的にはよかった。  (いつか)じいちゃんを風呂(シャワー)に入れた。風呂場をあらかじめ蒸気であたためて、脱衣所にヒーターを持ち込んで温めて準備した。家族総出でシャワーに入れた。身体を拭かれるのは嫌っていたが、シャワーは気持ち良さそうだった。この直後くらいにボイラーがこわれてしばらく家族は銭湯生活になった。壊れる前に風呂に入れることができたのでたぶん良かった。
 (いつか)じいちゃんが茶の間まで歩いて、久々にひげを剃りたいと。いつもは洗面所で立ってひげを剃っていたが、さすがに立ってできる状態じゃなかったため、洗面器などを持ち込んで茶の間でひげ剃り。もともとひげや髪などの身だしなみを普段から気をつけていたじいちゃんとしては長らくひげを剃れてなかったのが気持ち悪かったのかもしれない。自分でひげを剃るという余裕が出てきたという側面もある  (いつか)みんなでケンタッキーフライドチキンを食べた。もとからじいちゃんの好物だったもの。94歳になるまでずっと、KFCとか唐揚げとか、肉が好きだった。葬式でも唐揚げを棺桶にお供えした。
 1/31 このときとしてはいつも通りに家族4人みんなで晩飯。唐揚げやサバの塩焼きなど
 2/1 体調悪そう。吐き気。緑色の吐瀉物を吐いてかなりビビった。発熱。あとから振り返ると、ここが完全にきっかけ。1/31が最後の晩餐となった。原因は定かでないが、考えられる可能性として食あたりによる体調悪化だったらしい。母は1/31にサバの塩焼きを出したことを後悔していた。
 メシも食べられなくなってきた。立ち上がれなくなってきた。メシを食べないため、大便も出ない。ただ、1日1回必ず大便をしていたじいちゃんとしては大便が出ないことがかなり気持ち悪かったらしく、何度もトイレに起きようとしていた。このときはベッドの横に置いていたポータブルトイレにも自力で座りに行けない感じだった。かといって自分で立ち上がろうとして倒れて、起き上がれなくなるという状態だったため、ベッドでもぞもぞし始めたら見守りカメラでそれを検知して、介助しにいくということをしていた。トイレには立つが成果はないことがほとんどで、トイレに立とうとする->介助する->成果なくベッドに戻る というのを昼夜問わず2時間おきくらいにやっていた。オムツにしてくれ、といっても聞いてくれず、トイレに立ち上がるorベッドでオムツを脱いでする という状態だった。これがかなり家族を疲弊させていた。
 2/5らへん、高熱により抗生物質等の点滴が方針されたが、血管が弱りきっており針が刺さらない、刺さっても血管が破裂するという状態だった。細い針を使ってやっと刺しても、少しでも針周辺が動くと血管が破裂するので家族が腕を抑えて動かないようにしていた。痛いのかじいちゃんが手で針を抜こうとするため、より大変だった。点滴をするのは大変だが、点滴をしないと高熱が出る、点滴も数時間後に効果が切れるとまた高熱が出るという状態だった。入院時に検査していたときと同じく、どこが悪いための発熱ということが特定されず、不明熱ということだった。
 腕にどうしても点滴の針が刺さらない、腕には内出血跡が大量で、脚にチャレンジしても同様で、さらに痛そうという状態。ここで点滴の中止を依頼した。もともと延命治療を希望しないという家族の意思だったが、なんやかんやで(いつのまにか)点滴が始まっていた。このときに点滴を含めた延命治療の中止となった。
 点滴を中止したことで、発熱がおさまらずメシもほぼ食べなくなっていた。訪問の主治医に再度入院を勧められた。おそらく家族の負担を鑑みてその提案をしてくれていたらしい。母しては家で看取るつもりでいたが、家族の中で最もじいちゃんに付き添っていたし、それによって睡眠も満足にしていなかった状態であり、限界ということで家族で再入院を決断した。母はベッドでじいちゃんに対し、家で看取ることにならなかったことを謝るのと、それが家での最後の時間になるということで別れの言葉を言っていた。泣きながら「まだ逝かないで」と言っていた。どのくらいじいちゃんが聞き取れていたかは分からない。自分は、正直じいちゃんは十分に生きたと思っていたし、何年も(いわゆる寝たきりとかではなかったが)介護が大変そうだったのを見ていたため、母がこの介護負担から解放されてほしいと思っていたが、母の「もっと長生きしてほしかった」、「家でもっと一緒にいたかった」という気持ちを実感した。自分はその日、家のベッドでのお別れの言葉をかけることができなかった。覚悟ができなかったのか、かける言葉が見つからなかったのか。
 予定通り救急車で入院先に搬送された。2020年の心臓のときからたぶん計4回目の救急車だった。じいちゃんが運ばれて誰もいなくなった部屋を見て空虚感を感じた。ばあちゃんはそそくさとベッド等部屋の掃除をはじめて、心境が不思議だったが、今思えばばあちゃんは精神的に不安定になったときに掃除など忙しく働こうとするクセがあって、このときもそのクセで家の掃除に手を出していたのだろうな。
 もともと病院嫌いで、一時帰宅が認められたと伝えたときもかなり嬉しそうな反応だった。今回の再入院もじいちゃんにとっては悲しいのかなと思っていたが、体力的にだいぶきつそうでそれどころでもなさそうで、入院したからといって特に悲しそうとかではなかった。もともと2月上旬くらいに「ここは家か…?」と家であることを認識してなかったような言葉もあって、すでに自分がどこにいるかの認識も朦朧としていたぽい。
 入院したものの母は夜病室に泊まっていた。自分は看護師さんに任せればいいと思っていたが、母が心配であることも理解できたしそれに協力しようと、付き添いを交代したりした。相変わらずじいちゃんは自分でナースコールをしようともしない、看護師さんも基本的にはメシ等の定期イベントかナースコール時以外病室に来ないので、たしかに付き添いがあった方がよかった。結果的には家と同じような状態だったが、オムツ交換やメシを看護師さんがやってくれる、また心拍等が常に計測されている状態だったためそれらがいつでも確認できるという安心感があり良かった。ただ、ばあちゃんが顔を合わせる機会が減ったことは少し良くなかったと思う
 メシをほとんど食べなくなった。ゼリーを少しと、あとはお茶のみ。常に息切れしたような苦しそうな状態だったし、話しかけても目が合わないようになったりしていた。
 2/10 再入院してメシもほとんど食べていないということで危篤中の危篤であるという、我々家族もそれを認識していたし、主治医からもそう言われた。それを聞いて再度妻が実家にきてくれた。二人で病室にいって付き添いをした。
 2/13 妻が帰った。いつ亡くなってもおかしくない状態ではあったが、この日の主治医の判断としては、顔がまだ痩せこけてないため「もうすぐとは言えない」くらいの感じだったため。たしかにそうだなとは思っていた。このときは常にきつそうな顔をしていて、声をかけても目が合うことが少なかった。妻と一緒に、お別れの言葉をかけた。節目節目でお祝いしてくれて、喜んでくれたこと。いつも自分の心配をしてくれていたこと。嫁さんをじいちゃんに見せることができて嬉しかったこと。じいちゃんからもらった結婚祝いで指輪を買ったこと。正月に妻と一緒にじいちゃんと話したときも暖かく接してくれたこと。にありがとうを伝えた。二人でじいちゃんと手を握ると、それまで辛そうな表情が多く目の焦点もうつろなことが多かったが、そのときは我々に焦点を合わせ微笑んでくれた。このときの表情は忘れられないほど嬉しかった。
 2/14 自分も、母も、妻も仕事を再開した。前日に「あと1日」とか「あと数時間」とかという宣告がなかった以上、仕事には戻らざるを得ないという判断だった。母は病室から仕事をしていた。この日も午前中くらいまではある意味落ち着いており、特段辛そうだったり呼吸が乱れていたりといった様子もなかった。
 午後14時ごろ、寝姿勢の体勢変更をしてたら急に一時的に息が止まったと母から連絡があった。早めに行ったほうがいい?と聞くと、いつも通り手をバンバン動かしているらしく、あまり問題でないなと思っていた。
 午後16時30分ごろ、自分一人で普段の付き添い交代の気持ちで病院に向かう。道中で母から、呼吸の様子が変わったと電話があった。ばあちゃんが家にいたため、迎えにいくべきか、タクシーでこさせるべきか話し、家に自分が迎えに行くことにした。もともと終末期の変化などについてネットで調べていて、下顎呼吸から数時間でお迎えという気持ちでいた。そのため、この連絡があったときから数時間だろうと思っていた。とはいえ、可能な限り急いで家に向かい、ばあちゃんをピックアップして再度病院に向かった。
 午後17時10分ごろ、病院に到着、病院内の駐車場でも先にばあちゃんを下ろし、自分は車を停め、走って先に車を降りたばあちゃんに合流しに行った。ばあちゃんは今まで見たことないような早歩きで病室に向かっていた。自分は、↑のように数時間はお迎えまで猶予があると思い込んでいたのでばあちゃんに合流してからはばあちゃんの早歩きのスピードにあわせた。ばあちゃんに「そんなに急がん方がいい」とまで言おうとしたが、言わなかった。病室に着くと、すでに母がじいちゃんの手を握って泣いていた。「間に合わんやった」「ついさっき呼吸が止まった」と叫ぶように言っていた。低心拍アラートが鳴り響いていた。入ってすぐ心拍モニターを見ると40くらいの数値が見えた。そのときじいちゃんは気道確保の姿勢でベッドで仰向けで上を向くような姿勢で、口は開けっ放し、目も開けっ放しで瞬きもしない。呼吸はそのときしているのか分からなかった。(母が言っていた言葉をあとから振り返ると、あのときすでに呼吸は止まっていたんだろう) ばあちゃんは病室に入った途端泣き出して、手を握りに行き、「なしけんこげん早よ」「じいちゃんじいちゃん」と泣いていた。自分もベッドの横に行き、手を握って涙がこぼれた。言葉は多くは出てこなかったが「お疲れ様。最期までありがとう」と言ってた気がする。体感では病室に着いて1分くらい、心拍モニターには0でない数値が表示されており、ばあちゃんがかけた声はなんとか最期に間に合ったと思っている、信じている。
 主治医の先生が来て、ゆっくりと確認した後、午後17時23分が死亡時刻となった。12月の入院時もだし、2月に急に悪くなったのも、「原因は特定はできないが、考えられるのは心臓の人工弁への感染くらいしかない」「多くの人は病院にいながら家に帰りたいといっても帰れないことが多く、そんな中2ヶ月近く家で過ごせたのは本人にとって良かったはず」「3年前の心臓のときに亡くなってもおかしくはなかったが、強い気力と家族のちからでここまで生きた」「家族の皆さんはよく頑張った。本人もとても良かっただろう」と主治医が言ってくれた。同時に妻にも連絡し、「よく頑張った」と言ってくれた。ずっと死亡判定後もじいちゃんの手を握り続けていたばあちゃん、主治医、看護師さんたちにお礼を言いながらも泣いていた母、いつも通りベッドにはいるが動かなくなったじいちゃん それぞれを見てやっと実感がわいてきたというか、感傷がドッときた。じいちゃんも発熱が続いたり、思うように身体が動かなかったり大変だったと思うけど、最期まで強く燃えて燃え尽きて、「お疲れ様」と思った。
このときまでばあちゃんは涙を見せることも、弱音を吐くこともなく、(もしかしてじいちゃんのことあまり深く考えてない?とか覚悟が完全に完了してる?)とか思ってたけど、最期の最期に感情を爆発させていたのを見ると、いろんな気持ちをグッとこらえてたんだなとなんか安心した。いわずもがな母は最大にじいちゃんの最期に尽くしていた。このときはじいちゃんにもばあちゃんにも母にも、とにかく「お疲れ様でした」と思っていた。
 エンゼルケア?身体が整えられ、霊安室で再度じいちゃんと再開。きれいに整えられていた。ばあちゃんはまだ泣いてて、「きれいにしてもらって良かったね」と声をかけていた。今思えばこの霊安室での時間、4人家族での時間が、みんなが一つでとても良い時間だった。純粋にじいちゃんに思いを馳せていた。その日までは介護が大変だとかそんなことも考えてたけど、この時になると、「じいちゃんはとにかく手がかからなかった」という話をしていた。たしかに、ベッドでの生活は実質1ヶ月もないくらいだったし、補助が必要なときもあったが基本的にはすべてを自分の力でやろうとしていた。元気なときも、ひとりで畑仕事にいってなんでも一人でやる人だった。最期の最期までトイレなども自分の力でやろうとしていたし、家にいたときはリハビリにも懸命だった。介護期間中は大変だと感じていたはずだが、最期を迎えるとみんな「手がかからなかった」と言っていた。
 そのまま葬儀場に行った。ばあちゃんが霊柩車でじいちゃんと一緒に、自分は車で向かった。葬儀場では、担当の人から怒涛の説明があって、葬儀場内のお茶をご自由にお飲みくださいだとか、明日のためにお菓子を買って来といた方がいいだとか、クソどうでもいいと感じる話が多くてうんざりしてた。ひとしきり説明等を聞き終わり、仮通夜というやつをやった。お坊さんがじいちゃんの前でお経を読む。不思議とお経を聞いていると涙が出てきた。じいちゃんはお坊さんの前に布団に寝ていたが、その姿がいかにも生きているように見えた。お経を聞きながらじいちゃんを見ていると、今までのじいちゃんとの記憶がザーッと蘇ってくるようだった。
叔父家族も来たが、葬儀場に泊まった。叔父家族には会いたくなかった。じいちゃんとの別れに純粋に浸っていたかった。葬儀場を抜けて家に帰った。葬式のための写真整理をした。遺影の写真として、自分が一眼で撮った写真を選ぶことにした。葬式でのスライドショー写真のために母とアルバムを見返したりした。じいちゃんが写ってる写真はあまりなかったが、自分の幼いころの写真はあったため、母と思い出話ができた。その日までは病院に付き添いに行ったり夜も慌ただしい日々だったが、その日はなにもなく、それがより、じいちゃんとの別れを実感させた。
 2/15家族だけで通夜を行った。喪服を持っていなかったが、じいちゃんの喪服がサイズぴったりだった。じいちゃんの喪服を受け継ぐことができてうれしかった。袴を着てきれいに納棺されていた。安らかな笑顔になっていた。妻はこの日に葬儀場に着いた。妻と最期にじいちゃんに言葉をかけたとき、妻は「また会いに来ます」と言ってくれていた。きれいな姿になったじいちゃんにまた妻と二人で会いに来た。結婚を喜んでくれたこと、二人の姿をみて、辛い時も笑顔でいてくれたことを思い出して、棺の前でしばらく泣いた。
 2/16 葬式をした。自分が撮った写真が遺影になって置かれていた。とてもいい笑顔で見守ってくれてるようで、涙がこぼれた。じいちゃんの好きだった焼酎と、自分が実家にいたときはよく一緒に食べていた黒棒と丸ぼうろ、じいちゃんがすきだった唐揚げと芋の天ぷら、じいちゃんの畑に残っていたピースの茎、菜花の花、家に咲いていた梅と椿の花を持っていった。最後に棺をあけてお別れをした。ひとしきりお供えものを棺に入れて、顔に手を触れた。冷たくはなっていたが、触れた瞬間に、家のベッドでの日々と重なって思い出が溢れてきて泣いた。泣いちゃって言葉が出てこなかったが、「今まで心配かけたね」「お疲れ様でした」とだけ言葉をかけてお別れをした。
 葬式以降も、事務手続きとか、じいちゃんの農業所得の確定申告とかなんやかんや忙しくした。じいちゃんの確定申告をして、こんなに作っていたのかと驚いたりしてた。実家がばあちゃんの母の2人になってしまうことが気になるが、3/1に関東に帰った。四十九日には出なかった。自分はじいちゃんの兄弟などの親戚とあまり面識がなかったこと、叔父家族ともあんまり会いたくなかったこと、四十九日でない別の機会にゆっくりとじいちゃんには向き合いたいと思ったため。またの機会に墓参りと、仏壇参りに行ってじいちゃんに挨拶する。

後悔

あとからよくなかったことを書くと、いろんな気持ちがよくなかったことに上書きされちゃう気がしたのでよくなかったことから書いて、そのあとに良かったことを書く

  • 録画、録音環境(見守りカメラ等)を整えるのが遅かった。口頭の遺言を記録できなかった。自分も聞けなかった
  • ステロイドで一時的に元気になっていたっぽい1月中旬にもっと会話すべきだった
  • 畑仕事のノウハウをもっと吸収しとくべきだった
  • 望遠レンズしか持っていっていなかった(持ってなかった)ため、家の中でほぼ写真が撮れなかった。パジャマ姿や、ベッドでの寝姿は本人にとって〜とか考えて写真を撮ってなかったが、撮るべきだった。今考えれば1月なんてまだ元気だった。当時としてはこんなに元気なさそうな姿は撮るべきじゃないと思ってたけど。

よくなかったこと

  • 生きてる間に、できる範囲の名義変更系の手続きはやってもよかったかも(無理だったかも)
    • 亡くなったあとに事務手続きに忙殺された。葬式は準備を忙しくすることで死者との別れを忘れるための時間という話を聞いたことがある。その節はたしかにあるかもだが、事務手続きの忙しさで別れの余韻に浸る暇が少なかった
    • とはいえ介護中もそんな事務手続きをしようと思うほど暇だったわけではなく、どうせ無理だったのかも
  • 叔父の存在がキツい
    • いつも母がじいちゃんの世話を含め、家のことはやっていた。叔父は何もやっていない。それなのに長男であるという理由だけで遺産を100%持っていこうとしている(法律的にそうはいかないはずなのだが、そう主張をしていることがキツい)
    • 叔父が来たのは危篤の連絡を受けたクリスマスの土日と、再入院した2月中旬の土日と、それからは亡くなった後だった。介護が大変ということも伝わっていたのに、同じ県内に住んでいるのに、介護中土日に実家に来ることすらなかった
    • 葬式の控室でも、叔父家族はどうでもいい雑談で笑ってばかり。じいちゃんの思い出話などは微塵もなかった
    • 葬式では、家族葬という小さな葬式をしたにも関わらず叔父だけが会社の名前で花をあげており、家にまったく関わりのない会社の役員の名前が延々と読み上げられる時間が虚しかった。母は家族葬だからと職場からの花は断っていた
    • 叔父家族には葬式に水を差された感覚しかない。母もそう言っていた。葬式は、じいちゃんが安らかに旅立てるように、そしてそれ以上に祖母と母が悔いなく安らかにじいちゃんを送れるものでありたかった。自分の本音は、祖母と母と自分と妻の4人で葬式したかった
    • 葬式の準備やその後の親戚とのコミュニケーションはほとんどが実家に住む祖母と母の仕事となっていた。それにも関わらず叔父は偉そうにマナーとかなんとかを恩着せがましく指示したりしてきた。さらには叔父が叔父の奥さんと実家に来たときには、叔父の奥さんが家事などする(実態としてはそんなことはない)ためもっともてなせという趣旨の発言もあった
    • お金的にも、日々の世話も、すべて母が負担していたのに長男というだけで偉そうに振る舞い、遺産もすべて持っていこうとする。母は財産はほしいわけじゃないと言っておりそれは本心だと思うが、叔父が都合のいいとこだけ出てくるのは、母の尊厳を傷つけるものだと感じた
    • 母の尊厳を守るために、叔父の傲慢な態度と遺産を狙う狡猾さと戦いたい
    • 貧乏人ほど相続トラブルになる というのが本当だということが分かってしまった

よかったこと、書き残しておきたいこと

  • 病院から家に帰ってから元気だった
    • ステロイドの効果もあると思うが、本人がやっぱり家が好きだったし、ばあちゃんが作るメシや母による世話の安心感があったのも大きいだろう
    • 元気なうちにもっと会話すべきだったかも。ただ、もともとお互いに喋らないタイプだったし、これはこれでらしいかなと思っている
  • じいちゃんは仕事人だった
    • 定年まではもちろん、定年後も畑仕事。そればっかり
    • 介護中も、「(平日日中に介護して)仕事は大丈夫か」と言ってきたりしてた
    • 2/14 みんなが仕事を再開した途端に亡くなった。みんながしっかり仕事に戻るのを待ってたんだと思った。
    • じいちゃんに伝えられるように仕事を頑張る。一方で心配させないように身体にも気をつける
    • 最期の日あたりは仕事休んで、最期を付き添えるようにしとくべきだったかとかも考えるけど、やはり仕事に戻ったからこそじいちゃんも逝けたんだと思うことにしている
  • 母はとても大変な介護生活だったと思うが、やり遂げた
    • じいちゃんの希望を最大まで尊重し家族での介護を選択し、多くのことを母がやってくれた
    • 母を見ていると、「大変そう」「無理しないでくれ」という思いが強かったが、最期の方じいちゃんへの思いを聞くと、大変などとはほぼ思っておらずただひたすらじいちゃんのために、じいちゃんともっと一緒にいられるようにと願って世話をしていた
    • いずれ母を看取るときは来る。そのときは母がじいちゃんにしたように、一緒にいる時間を大切にしようと思う
  • 最期に2ヶ月くらい一緒にいられてよかった
    • 一緒に過ごした最期の約2ヶ月がなかったら、もっとあっさりと見送ることになっちゃってた気がする
    • じいちゃんと祖母と母との4人で一緒に過ごした最期の約2ヶ月が最高に家族がひとつになってた。初めてといってもいいほど家族の絆のようなものを感じた
    • じいちゃんにとっても、家で、ばあちゃんや、娘である母と一緒に過ごせたし、我々家族としても、大変ではあったもののかけがえのない時間を過ごせた。病院から帰ってきてからの1ヶ月くらい、日々体調がよくなっていったじいちゃんを見るのは嬉しかった
  • いまでも思い出す
    • 妻と一緒にじいちゃんに会って、感謝を述べることができて、微笑んでくれたこと
    • じいちゃんが妻と実際に会った機会は多くなかったが、しっかり覚えていてくれたし、妻が顔を見せると笑顔になってくれた
    • 最期の日、ひとりで病院に向かっていなければ、一度家にもどる時間も要らなかったわけで、もっとしっかり最期に立ち会えたのでは。と思う。後悔しているわけではないし、母も少し気にしていたので、悪く考えるのはやめたい
    • 最期に立ち会った祖母と母がとても泣いていたこと。特に祖母はそれまでの日々、たとえば危篤/余命宣告を受けたときや、再入院のため家から送り出したときも泣きもしなかったため、もしかして完全に覚悟が済んでいてあまり感情が揺れていなかったのかな?と思っていたけどそうではなく、最期まで希望を捨てなかったからこそ最期を迎えてしまったことが悲しかったんだろう
    • 自分が撮った、自分に結婚祝いをくれている時の満面の笑みが遺影となったこと。「嫁さんば連れてくるまで生きとく」を実現してくれて、とても喜んでくれた表情がこれからずっと残っていくのが嬉しい
  • 入院中に、今までの人生でほぼ言えなかった感謝の言葉を言えた。大人になるまで分からなかったけど自分のことを気にかけてくれていたこと、最期まで家族に心配をかけないようにと振る舞ってくれたこと
  • じいちゃんが入院時、仏様に参りたいと常々言っていた、いつも朝起きて最初にやることは神棚/仏壇に参ることだった。以前までその意義が分からずやってなかったが、今では仏壇参りや墓参りをしたいと思うようになった

じいちゃんを見送って

高校生のときは「大学に入るまでは生きとかやん」、大学生のときは「大学卒業して就職するまでは生きとかやん」、就職してからは「嫁さんば連れてくるまで生きとかやん」と、わたしの節目節目を楽しみに生きてくれていた。それぞれの節目で喜んでくれて(寡黙ではあったのでひっそりと)、今思い返すととてもありがたかった、嬉しかった。そして「嫁さんを連れてくる」ことができ、じいちゃんにも喜んでもらえたことがとても嬉しい。最期のほうは体力的にもつらそうだったけど、妻と一緒に顔を見せると微笑んでくれた。最期までわたしのことをおもってくれていた。最期までありがとう。お疲れ様。

じいちゃんのため、自分のためということで実家への長期滞在を応援してくれて、じいちゃんにも何度も顔を見せに来てくれた妻、ありがとう。

じいちゃんを不安にさせないように最期まで、その後も強く振る舞ったばあちゃん、お疲れ様。

じいちゃんのためにいつもそばで最大に尽力したお母さん、お疲れ様、ありがとう。